ジャイアン卒業し普通のおじさんに

ニッカンスポーツで掲載している「さよならプロ野球」より

愛称「ジャイアン」で親しまれた藤島誠剛さんが、第二の人生へシフトチェンジした。
次の道に選んだのはタクシー運転手。23日には”デビュー”の初実車を体験し、クリスマスのこの日も都内を駆け回った。「もう野球を卒業して普通のおじさんになろうかなと。ゼロからやりたかった。でも、恥ずかしいな。みんなに知られるの。」
社会人からは現役続行の誘いもあった。だが、異色の新天地に「酔っぱらったお客さんもいたけれど、おもしろいですよ。」と手応えをつかんだ。
引退直後の10月、自動車教習所へ向かった。夢だった中型自動2輪の免許を取得。続けてタクシー運転に必要な普通自動車第二種免許取得のために一週間、朝から夕まで通い詰めた。一発合格した。すぐ自分で都内の会社を探し、面接を受けた。「今まで、家庭を犠牲にしてきたから」。支えてくれた裕美夫人、誠優君のために、経済的に安定した職に決めた。
苦労人に、神様も味方した。今月15日、都市部の東京と大阪のタクシー会社だけで実施される、最終の地理テストを受験。40点満点で合格ラインは32点以上という難易度の高さも、36点でクリアした。偶然にも試験は、選手時代に通いなれた経路。得点は背番号と同じ「36」だった。「奇跡だよ」。再出発は不思議にも野球とつながっていた。
11月25日、選手会納会での別れのあいさつ。「みんなの顔を見たら思い出がよみがえって」…号泣して言葉が続かなかった。オレが死んだ時以外は人前で泣くな−。98年6月に死去した、父清美さんとの誓いを破ってしまうほど、濃密な17年間だった。これからは同じように「普通の父」になるために、バットをハンドルに替えて握り続ける。

80年代後半の日ハムといえば、投手力はいいけど、4番が大島という打つ方に魅力がないチームだった。だからこそ、野手を中心にドラフトを進めていったが、その中で、和製大砲(!)として期待されていたのが、この藤島だった。
「将来の4番」と言われて、デニーか藤島かというほど、週刊ベースボールで今年期待の選手と、毎年書かれていた。結局、ブレイクはしなかったけど、ずっと見ていた選手だから、愛着があるんだよね。第二の人生、頑張ってください。
その他、関根が打撃投手になるのは驚いた。ドラ1。東北福祉大卒と、いかにもな編成部入りだと思っていました。